学校現場の不安を少しでも払拭したい
新型コロナウイルス感染症の流行は、教育の現場にも大きな混乱をもたらした。長期間の学校の臨時休業措置が要請されるなど、従来とは異なる対応が求められる中、どうやって子どもたちを守りつつ、教育を続けていくかが、学校現場の大きな課題となっていた。
※1 文部科学省,「新型コロナウイルス感染症対策のための小学校,中学校,高等学校及び特別支援学校等における一斉臨時休業について(令和2年2月28日)」
そのような中で、教育現場の不安を少しでも払拭したいという思いから、プロジェクトチームは次の研究対象として、より多くの子どもが活動し、感染が拡大しやすいと考えられる小学校を選んだ。
「不特定多数の人と出会う公共の場では、病原体と接する機会も多いはずです。家庭内研究の次は公共の場で、という思いがありました。学校内で感染症がどのように広がっていくかという研究は世の中でほとんど行われていなかったため、研究する意義があると考えました」(瀧沢研究員)
「研究を進めるにあたり、何度か実際に小学校へ行きましたが※2、給食の時間に全員が前を向き、誰とも喋らずに食べているのを見てさみしさを感じ、早く感染症の脅威が去ってほしいと強く思いました。教育現場における適切な感染症対策が何か、糸口をつかむことで、友達との会話や教育の機会をなるべく減らすことなく、安全を確保したい。この研究の重要性を一層強く感じました」(中島研究員)
※2 2022年、子どもの行動データ取得に向けた調査時
小学校における「集団」のシミュレーションモデルを構築し、仮想的に子ども同士の接触行動によるウイルス伝播状況を解析することで、小学校における感染症拡大抑制に効果的な衛生行動の提案に繋がる情報発信ができる。また、今回の集団シミュレーションモデルに関する知見を活用することで、他の公共の場における研究へ展開できると考えた。
複数の子どもたちの行動からわかったこと
「集団行動」をともなうシミュレーションモデルの構築には、家庭内とは異なり、集団による感染や複数人の子どもが同時にウイルスを拡散していく状況も視野に入れる必要がある。つまり、複数の子どもの行動データに加え、子どもの集団形成に起因する子ども同士の仲の良さの度合いなどを把握する必要があった。しかし、子ども自身に、友人との距離(位置)や仲の良さ、さらに自分の行動や触った物を後から思い出して記録してもらうことは難しい。そこで、研究チームは子どもたちが自由に動き回り、感染リスクが高まると想定される休み時間の間、教室や廊下にカメラを設置し行動を撮影することで、実際の子どもの行動データを取得※3、シミュレーションへ組み込むこととした。
※3 東京都内小学校1校に協力いただき、同校4年生の教室と廊下を撮影。尚、本研究は、研究内容や個人情報の取り扱いに関する詳細な説明をした後、教育委員会、教員、対象となる子どもとその保護者の同意を得た上で実施。動画撮影は個人が特定できないよう処理し、同意が得られなかった子どもが映った時間帯の動画は全て削除、研究に利用しないよう配慮した。
映像データから、子どもの接触物と子どもたちの関係性の大きく2つの情報を取得し、シミュレーションへ組み込むため、数値化をした。下記の図は5分間の休み時間に30人が接触した物と接触回数の合計を示している。子どもは自分のものだけではなく、他人の机や上着、共有のものにも多く接触していることがわかる※4。
※4 中島敬祐 ほか:小学校における児童のウイルス接触リスクを可視化するシミュレーションモデルの提案, 人工知能学会全国大会論文集, 2023.
また、子どもたち同士のコミュニケーションについては、誰が誰に対してどの種類のコミュニケーションをどの程度の頻度や時間で行ったのかを集計することで、子どもたちの関係性を数値化した。以下のイラストは集計の例を示している。コミュニケーションの取り方は様々であり、多くの子どもとコミュニケーションをとる子どももいれば、特定の子どもとだけコミュニケーションをとる子どもがいることもわかった。
「30人の児童がいて、それぞれが自由に動いていると、思った以上にウイルスは拡散されていくことが、この研究から予想されました。同じ教室で過ごしていれば、会話をしていなかったクラスメイトからもウイルスを受け取る可能性も見えてきました」(菊池研究員)
これらの取得したデータをもとに、共同研究者の倉橋教授※5と密に連携しながら、行動データの解析・数値化をしつつ、そこから仮説を立て、追加データの解析・数値化、シミュレーションに組み込んで検証する工程を短期間で何度も繰り返し、集団シミュレーションモデルのブラッシュアップを進めていった。
※5 開発当時の所属:筑波大学 ビジネスサイエンス系 教授
「感染症拡大が続く時期に、早急に研究結果を発信することを目標としていました。限られた時間の中でデータを加工し、シミュレーションモデルを構築していく作業はとても大変でしたが、子どもの行動という貴重なデータを解析することで、子どもならではの特徴や傾向が見えてくるのは大変興味深く、やりがいを感じました」(菊池研究員)
構築した集団シミュレーションモデルを用いて、手洗いなどの衛生行動によるウイルス伝播抑制の効果を評価した。具体的には、休み時間の5分間で、ウイルスに感染した子どもの手から、ウイルスが付着する子どもの数が、衛生行動で変化があるのかを検証した。
その結果、感染した子どもが、ウイルス付着直後に手洗いや消毒をすることで、ウイルスが付着する子どもの数は減少することがわかった。ただし、手洗いのために廊下へ向かう際、教室のドアに触れてしまうことで、逆に他の子どもへウイルスを広げてしまうことも確認された。つまり、手にウイルスが付着した後、早いタイミングで手洗いや消毒をすること、ドアへの接触をさせない工夫等がウイルスの拡散抑制に効果的であると考えられた。
教育の機会を減らさない効果的な予防策につなげていきたい
今回の研究結果を、協力してくれた子どもたちに見せながら手洗い教室を実施した加藤研究員は、この研究が子どもたちへ与える影響について、次のように話す。
「みなさん、とても興味津々で聞いてくれました。子どもたち自身のデータなので、やはり自分ごととして考えられるのだと思います。実際の子どもたちの行動データから構築した集団シミュレーションモデルを活用して得られたデータを元に衛生行動の啓発をすることで、子どもたち自身が無意識に行っていた日々の行動を振り返ることができるため、とても重要な研究であるとであると感じました」
手洗いだけで感染症を防ぐことは難しい。子どもが接触しやすい物の表面を適切なタイミングで消毒するなど、複数の対策の組み合わせが重要になる。この研究は、そういった適切な感染症対策の提案の一助になるだろう。
「シミュレーションモデルを用いて、これまで何となくしかわかっていなかった行動を可視化できたことで、どのように行動すればよいかということが見えてきます。今回の集団シミュレーションモデルを使えば、自分自身の感染リスクだけでなく、他の人への感染リスクを示すこともできます。今後は、この研究結果を小学校の現場に伝えていきながら、他の公共の場への展開や海外での衛生行動の啓発などへの応用も検討していきたいと考えています」(瀧沢研究員)
目に見えないリスクを可視化することで、より適切な感染症対策に向けた衛生行動や施策に繋げていくことができる。新型コロナウイルスが出現する前も後も、感染症が小学校で流行しない年はほとんどない。感染拡大を最小限にとどめ、教育や友達同士の交流の機会を減らさないためにも、こうした日々の研究の積み重ねがますます大切になってくるだろう。
・所属は取材当時のものです(2024年1月取材)
【PICK UP】共同研究者 筑波大学 ビジネスサイエンス系 教授※6 倉橋節也 先生からのコメント
本研究を通じて、生活者の無意識の行動を調査・理解しながら、シミュレーションモデルによってウイルスの接触感染リスクを予測する技術を確立したことは、将来の感染症に備える意味でも、大変重要であると考えています。今後も研究の歩みを止めることなく、社会全体の感染症予防に向けた衛生行動の提案を続けていただくことを期待します。
※6 開発当時の所属
<先生ご紹介>
ビジネスサイエンス系教授。社会シミュレーション、経営情報分析、ゲーミング、進化的機械学習、異常診断などの研究に従事 。
- 全体統括 瀧沢研究員
- 生物科学の応用研究、ファブリックケア製品の開発の経験を経て、分析技術を活用した微生物の研究を担当。
- 研究担当 中島研究員
- 入社以来分析技術を活用した微生物や界面科学に関する研究を担当。
- 研究担当 加藤研究員
- 入社以来分析技術を活用した微生物の研究を担当。
- 研究担当 菊池研究員
- 製品の安全性に関する研究の経験を経て、微生物の研究を担当。