より適切な清潔・衛生習慣を身につけてほしい コロナ禍で行われたライオンの挑戦の舞台裏

2019 年に発生した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、瞬く間に世界中へと広がり、人々の感染症に対する意識を大きく変えた。未知のウイルスに対して、世界中の専門家たちがさまざまな角度から研究を進めるなか、ライオンとして、感染症対策に向け何ができるのか。ライオンの研究員は、接触による感染リスクを可視化し、情報発信することで、適切な衛生行動の実践・習慣化へのサポートができるのではないかと考え、ライオンとしては初の試みとなるシミュレーションモデルの開発に取り組んだ。プロジェクトに関わった研究員たちに、当時の研究内容を詳しく聞いた。

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パンデミックの脅威に対応したプロジェクト

感染症対策には、病原体をヒトの体の中に侵入させないことが重要だ。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)やインフルエンザウイルスなどの呼吸器感染症を引き起こす病原体の感染経路は、「飛沫・空気感染」や「接触感染」などが考えられる。飛沫・空気経路の感染リスクについてはさまざまな研究により、理解が大きく進んだ。一方で、手指などについたウイルスがどのように家具や物、他の人の手指へと伝播し、口や鼻などの粘膜に到達する可能性があるのかという、接触感染の経路やリスクについては、十分に明らかになっていなかった。

そこで、研究グループは今後発生する感染症も見据え、衛生行動の実践・習慣化をサポートすべく、家庭内の感染リスクを可視化するプロジェクトを立ち上げた。外からのウイルスの持ち込みが想定される帰宅時の行動に着目し、手を洗うまでの生活者の無意識の行動を可視化することで、接触感染リスクを正しく理解することが狙いだ。

研究グループのリーダーを務めた瀧沢研究員は、プロジェクトを立ち上げた理由を、次のように話す。

「私たちはウイルスや細菌などの微生物を研究するグループですので、実験室でウイルス自体の性質を調べることはできます。しかし、多くの人が不安に感じているのは、どこからウイルスが来てどのように広がっていくのかということです。それを知るためには、ヒトの行動を組み合わせた研究が必要です。実際に感染した方の家にお邪魔して調べるということは困難であるため、仮想空間内で生活者を自律的に行動させるシミュレーションモデルを構築すれば、家庭内におけるウイルスの拡散状況を知ることができると考えました」

シミュレーションモデルを構築し、家庭内のウイルス感染リスクを可視化するプロジェクトが始動した。

ウイルスが付着し広がる様子を可視化する

生活者が外出先から帰宅後、家庭内にどのようにウイルスが分布・拡散するかを解析するシミュレーションモデルを開発するためには、大きく分けて2種類のデータを取得し、組み込む必要があった。ウイルスが家庭内にあるどのような素材表面にどのくらい移行(分配)するかというデータ(ウイルス付着分配データ)と、生活者が帰宅時にどのように行動(家具への接触、室内の移動など)するかという行動データだ。

シミュレーションモデルを活用した家庭内におけるウイルス分布・拡散の可視化フロー

ウイルス付着分配データの取得には、新型コロナウイルスと同じエンベロープ型ウイルス※1であり、病原性の低い実験用のインフルエンザウイルスの性質を参考にした。家庭内には様々な素材の家具や物が存在するため、プラスチックや金属、布など複数の素材を使用し、皮膚表面を模した肌モデルにウイルスを付着させ、各素材表面への分配、あるいは素材表面から肌モデルへの分配を測定した。その結果、素材表面から肌モデルよりも、肌モデルから素材表面へのウイルス分配率が高いことが確認された。

※1 脂質二重膜であるエンベロープを持つウイルスのこと

ウイルス付着分配の模式図

さらに、生活者は帰宅後に様々な物を連続して触ることが想定される。そこで、連続接触によるウイルスの分配率の変化を確認するため、帰宅時に接触することが想定されるドアノブ(ステンレス表面)に対し、汚染させた肌モデルを連続接触することで評価した。その結果、ウイルス分配率は接触回数に従い、大幅に減少することが確認された※2。これらの結果は、シミュレーションモデル構築に向けたウイルス分配のデータとして反映させた。

※2 関根由可里 ほか:家庭内帰宅時接触行動に伴うウイルス拡散リスクとケア効果の可視化, 人工知能学会論文誌, 38(2): 2023.

複数回数接触による肌から素材への分配率の変化

ウイルス付着分配を担当した中島研究員は、「ライオンとして初めての取り組みであったため、どのような条件で接触させるか、どのようにウイルスを検出するかなど、様々な実験条件を短期間で確立させることは本当にチャレンジングでした」と話す。

様々な条件で実験を進め、必要なデータを取得していった

ウイルス付着分配と並行して、帰宅時における生活者の行動データを取得した。普段、多くの生活者は無意識に移動し、様々な物に触れている。改めて帰宅後から手を洗うまでの行動実態を把握するため、約1,100人の男女を対象に、住居の形態や間取り、帰宅直後から30分間に訪れた部屋、そこで触った物の順序、手洗い・手指消毒のタイミングなどについてアンケート調査し、家庭内における接触行動や室内の移動を数値化した。

帰宅時における生活者の行動データのイメージ

「検討開始時は、生活者によって家庭内の間取りも帰宅後の行動も千差万別で、どのような基準でデータを取得すればいいのか分からず、大変苦労しました。シミュレーションにより様々なヒトの行動や社会動向を解析されている、共同研究者の倉橋節也教授※3と議論を重ね、調査を設計し、シミュレーションモデルの開発に必要なデータを取得し、解析を進めていきました」(中島研究員)

※3 開発当時の所属:筑波大学 ビジネスサイエンス系 教授

帰宅時の行動を可視化して見えたこと

取得したウイルス付着分配および生活者の帰宅時の行動データをもとに、『エージェントベースシミュレーションモデル』を構築した。これにより、生活者が訪れた部屋で、物または手指に付着するウイルスの推定量や室内へのウイルスの拡散を定量的に可視化できるようになった。

以下は、帰宅後30分間の大人の行動を、これまでのデータを元に構築した『エージェントベースシミュレーションモデル』で再現した図である。帰宅前にウイルスが手指に付着し、その後手洗いなどの衛生行動を行わなかった場合を想定している。解析の結果、帰宅後の早い段階で触れる物、例えばドアノブやリモコンなどがある部屋ほどウイルス付着量が多いが、寝室や洋室に持ち込まれるウイルス量は少ないことが推測された。

帰宅時接触行動の再現とそれにともなうウイルス拡散の推測

さらに帰宅後、物に触れる前に手洗いや手指消毒をした場合のウイルス拡散の様子を比較した。その結果、帰宅後早めの手洗いでウイルスの家庭内拡散範囲が狭まり、特に玄関での早めの手洗いや手指消毒が効果的であることがわかった。

衛生行動によるウイルス拡散の抑制効果の推測

また、研究グループは、これまでの知見から、大人と子どもでは家庭内での行動や触れる物が異なる傾向があると考えた。そこで、大人と子どものウイルス拡散や衛生行動の影響を明らかにするため、“子ども”のシミュレーションモデルも構築し、解析を進めた。帰宅前に子どもの手指にはウイルスが付着しているが、大人にはウイルスが付着していない状況を想定した。その結果、先に帰宅した子どもも、後から帰宅した大人も衛生行動をしなかった場合、家庭内全体にウイルスが広がると推測された。

帰宅後の大人と子どもが衛生行動をしなかった場合のウイルス拡散の推測

一方、先に帰宅した子どもが衛生行動をすることで、大人が帰宅前の子どもによるウイルスの室内への拡散は、大幅に抑えられると推測された。

先に帰宅した子どもの衛生行動によるウイルス拡散の抑制効果の推測

さらに、大人への二次的な接触感染リスクを推測するため、先に帰宅した子どもが衛生行動をした後、帰宅した大人の手に付着するウイルス量を解析した。上記同様に、帰宅前の子どもの手指にはウイルスが付着しているが、大人の手指には付着していない状況を想定した。その結果、先に帰宅した子どもの衛生行動だけでは、大人も子どもも衛生行動しなかった場合とウイルス量がほぼ変わらず、後に帰宅した大人の二次的な接触感染リスクの低減に繋がらない可能性が確認された。これは、先に帰宅した子どもが衛生行動の前に触る玄関のドアノブに大量のウイルスが付着しており、後から帰宅した大人がこれを触れることで、手にウイルスが移ったと考えられた。

子どもの帰宅後に大人が帰宅し、衛生行動をしなかった場合に
大人の手に付着するウイルス量の推測

一方で、先に帰宅した子どもも後から帰宅した大人も衛生行動をすることで、大人の手に付着するウイルス量は格段に減少し、二次的な感染リスクが低減する可能性が示唆された。このことから、家庭内の感染リスク低減に向けては、家族全員が帰宅時に適切なタイミングで衛生行動をすることが重要であることが示された。

大人も子どもも衛生行動をした場合に、大人の手に付着するウイルス量の推測

今回の研究結果の意義について、プロジェクトメンバーの加藤研究員は次のように語る。

「私たちの研究から、家族全員が帰宅後できるだけ室内の物に触れる回数を少なくし、すぐに適切な衛生行動をすることで感染リスクが抑えられることがわかってきました。今回の研究の結果を生活者へ発信することで、感染症対策に貢献していきたいです。また、今回の結果を通じて、生活者が無意識にやっていた自分自身の習慣を改めて見直すきっかけにしてもらいたいです」

感染症を引き起こすウイルスは新型コロナウイルスだけではない。目に見えない病原体を恐れすぎず、感染リスクを軽視することなく、適切な衛生行動の実践・習慣化により、感染症を対策することが重要だ。その実現に貢献する研究や製品の開発に向けて、研究員たちの挑戦は続いていく。

 

・所属は取材当時のものです(2024年1月取材)

プロフィール
全体統括 瀧沢研究員
生物化学の応用研究、ファブリックケア製品の開発の経験を経て、分析技術を活用した微生物の研究を担当。
研究担当 中島研究員
入社以来分析技術を活用した微生物や界面科学に関する研究を担当。
研究担当 加藤研究員
入社以来分析技術を活用した微生物の研究を担当。