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「歯みがき大会」の変遷

子供たちの歯科衛生を指導する大会は、1932(昭和7)年6月4日のムシ歯予防デーに始まりました。その名称は「学童歯磨教練体育大会」、「学童歯磨訓練大会」、「学童歯みがき大会」そして現在の「全国小学生歯みがき大会」へと変わっています。今日までにどんなことがあったのでしょうか。
いくつかの特徴ある大会を取り上げてその変遷を振り返ってみることにしましょう。

はじめて「噛み方教練」が行われた紀元2600年記念第9回大会

第九回大会プログラムの表紙

第9回大会は、太平洋戦争前、最後となった大会です。1940(昭和15)年、健康週間(5月1~10日)中の5月7日に学童齲歯防止会とライオン歯磨口腔衛生部の主催により後楽園スタジアムで開催されました。
参加校29校、児童数3,400人、引率の先生194人と、スタンドで見学した学校22校、児童数8,189人、引率の先生184人、合計11,967人が集いました。
さて、1940(昭和15)年とはどんな年だったのでしょうか?
日本は長く続く日中戦争の中にありました。
翌1941(昭和16)年の12月8日には太平洋戦争に突入しています。
「学童歯磨教練体育大会」もこのような時代の影響を受けたものになっています。同大会の案内書から「開催の主旨」を引用してみましょう。

「興亜の巨歩日に進む時、皇紀2600年奉祝の陽春に際し、一億一心肇国精神を奉体して、国運の宣揚に励み益々国民の増強に努めねばならぬと存じます。…学童歯磨教練体育大会も本年は大陸建設国策下国民厚生運動の一翼に従って実施する事となりました。…」
(注)皇紀:日本の紀元を「日本書紀」に記す神武天皇即位の年を元年として起算したもの。

こんな年ですから、紀元2600年記念大会として行なわれたのです。
大会プログラムでは、歯磨教練を行う第1部と職業野球(プロ野球)を行う第2部で構成されています。
第1部の開会式では、宮城遥拝や橿原神宮遥拝が行われ、「紀元2600年頌歌」が歌われるなど紀元2600年記念大会ならではの式典が行われています。
次に大会のメインイベントである「演技」の部分に注目してみましょう。

第9回大会プログラムの内容

「演技」の内容は、
1.歯磨教練 2.噛み方教練 3.ラジオ体操 です。

「演技」と表記されているように、この大会は子供たちを指導する場ではなく、子供たちの日ごろの訓練成果を発表する場だったのです。選ばれた子供たちが大集団で一糸乱れず整然と、これらの「演技」を行なったのです。
ところで、「噛み方教練」とは何かおわかりですか?
「噛み方教練」とは、歯の健全な成育を促進するために考案されたもので、タクアン、リンゴなどを噛んで噛む力をつけることを体操形式で教える方法でした。その起源は「歯磨教練」と共にありますが、「歯磨教練」ほどは普及しませんでした。
ではなぜ、この年の大会に限って「噛み方教練」が行なわれたのでしょうか。
この頃の日本は、いわゆる非常時にありましたから、限りある食糧資源を大切にするために、食物をよく噛んで栄養の吸収を高めることが奨励されていたのです。例えば、当時の標語に「節米は咀嚼から」、「興亜の食糧 咀嚼で活せ」や「多く採るより多く噛め」のようなものがあります。
歯の健全な成育のためにというよりも、食糧不足に対処するために「噛み方教練」が必要とされたようです。

13年ぶりに復活した第10回大会

第十回大会「参加の栞」

第10回大会は、第9回大会に続く大会ですが、13年間のブランクがありました。
1953(昭和28年)の「口腔衛生強調運動」(6月4~10日) に協賛して、明治神宮外苑競技場で行われました。主催は東京都学校保健衛生会とライオン歯磨口腔衛生部でした。
関係者は、大会を復活できた喜びにつつまれていました。大会当日に配布された小冊子「参加の栞」には、大会実行委員長の挨拶として次のように書かれています。
「学童歯磨訓練大会は、1932(昭和7)年から15年まで、ムシ歯予防デーの行事として、年々盛大に行なっておりました。そして第9回を最後に戦争のためできないでいたのですが、独立後(終戦後の意味)ようやくこヽに第10回目の大会を開くことになりました。…」

この大会には、多数の参加希望校から125校が抽選で選ばれ、5年生と6年生合わせて12,048名、引率の先生407人が参加しています。
抽選にもれた64校の生徒9,384人、引率の先生219人もスタンドに陣取り見学しました。

曲芸飛行をするヘリコプター

この大会を特徴づけたのは、なんといっても第2部の「レクリエーション」の華やかさでした。
警視庁音楽隊による吹奏楽演奏、航空ページェント、石井小浪学校舞踊研究所生徒300人総出演による野外大バレエが行われました。
中でも呼びものは航空ページェントで、極東空軍のヘリコプターによる高等飛行が披露されました。
娯楽の乏しい中で、これだけの催しものが行なわれたのですから大変な人気でした。

下の写真は、スタンドの生徒がグランド内で演技する生徒に合わせて「歯磨体操」をしている風景です。
生徒が手にしているのは、お土産としてもらった歯ブラシ型消しゴムのキャップが付いた鉛筆。
「歯磨体操」そのものは、歯列を16カ所に区分した方式で戦前と同じものでした。
伴奏音楽も戦前と同じものが使われましたが、翌年の大会からは、土橋啓二氏作曲による軽快な調べに変わっています。この曲にはサトウハチロー氏の詞がつけられ、歯磨訓練の歌「くまの子りすの子」として、その後長く愛唱されました。

スタンドで「歯磨体験」をする生徒
歯ブラシ型消しゴムのキャップが付いた鉛筆(部分)

史上最大の第22回大会

大会の規模を参加校数や参加人数で見ると、昭和30年代、それも第13~15回大会あたりがピークとなっていますが、この昭和40年に行われた第22回大会はその規模の大きさで突出しています。
総参加校は310校、総参加人数は75,000人でした。
これだけの大規模な大会となったのには理由があります。前年の1964(昭和39)年10月、東京オリンピックが開催され成功裡に終わり、翌年になっても、日本はオリンピックの余韻さめやらぬ中にありました。このような雰囲気の中で、第22回大会への参加勧誘が始まったのです。「あの東京オリンピックの会場に集いませんか」と呼びかけたのです。この結果、75,000人が国立競技場=オリンピックスタジアムに集まったというわけです。

開会式をむかえた国立競技場
体操着で「歯磨体操」

大会プログラムは、オリンピックを彷彿させるような演出でいっぱいでした。
ファンファーレに始まり、グランド一周の聖火リレーと点火式も行なわれました。そのために使われたトーチはオリンピックで使われたものと同形でした。
聖火台に点火されると同時に演奏されたのは、ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」だったのです。
そして、第2部の歯磨訓練へと移り、歯列を16カ所に区分した方式で「歯磨体操」が行なわれました。
第3部の「大会パレード」がまた盛大でした。
和太鼓によってパレード開始の合図が告げられると、航空自衛隊航空音楽隊(50人)を先頭に、陸上自衛隊中央音楽隊(55人)、消防庁音楽隊(42 人)、陸上自衛隊東部方面音楽隊(42人)、皇宮警察本部音楽隊(42人)、陸上自衛隊第一師団音楽隊(40人)、警視庁音楽隊(42人)、海上自衛隊音楽隊(45人)が次々に演奏をしながらトラックを一周したのです。
そして、児童鼓笛隊(日本鼓笛連盟300人)が最後を務めました。
フィナーレは参加者全員による「蛍の光」の合唱でしたが、当時の最新設備であった電光掲示板には「ワスレマセン ハノケンコウ」と表示されていました。

57年ぶりに「噛むこと(咀嚼)」を取り上げた1997(平成9)年の大会

咀嚼テストの記入用紙

1997(平成9)年の第54回大会では、「よくかんで食べよう」という歯の衛生講話がありました。「咀嚼」ということが、大会のプログラムとなったのは1940(昭和15)年の第9回大会以来のことですから、なんと57年ぶりになります。もちろん、前回は食糧不足という状況があってのことで、今日の状況とは異なっています。
なぜこのとき、咀嚼が取り上げられたのでしょうか?
それは何よりも、咀嚼機能が全身の健康と大きくかかわっていることが明らかになってきたからです。
ところが、日本の食環境は、咀嚼という点から見ると、非常に問題が多いことが指摘されています。
加工されていて柔らかい食べ物が多いので、よく噛まないでも食べられるという問題があります。
そして、子供たちの食習慣にも問題があります。
硬い食べ物を嫌う傾向があること、食べ物を飲み物と一緒に流し込むような食べ方をすることが多いことなどです。

歯科衛生士学校の指導による
グミゼリーの咀嚼テスト

ふだんから噛みごたえのある食べ物を噛んでいない子供たちは、噛む力が低下してしまいます。
しかも困ったことに、咀嚼機能を発達させ育成するには、成人になってからでは遅すぎるのです。
つまり、子供の時から正しく育成する必要があるのです。
歯の衛生講話では、「咀嚼(噛むこと)の果たす役割」や「よく噛んで食べることの大切さ」が実験や映像をおりまぜて、楽しく分かりやすく解説されました。そして、参加者全員がグミゼリーを噛んで「よく噛んで食べることの大切さ」を体験しました。

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