人間の活動には、ある時期には多くの人に受け入れられて確かな役割を果たしながら、いったんその役割を達成すると次のステージの礎となって静かに消え去ってしまうものが少なくありません。
歯みがき(ブラッシング)の手順を体操形式で教えた「歯磨体操」もその一つです。
大正の初めころ、日本に紹介され多くの人が参加した活動ですが、今日では見られなくなりました。
1990(平成2)年、第47回「学童歯磨訓練大会」の中で行われた「歯磨体操」が、おそらく日本で最後のものだったでしょう。
「歯磨体操」とは何であったのか、また、歴史的にどんな使命を果たしたのか、人々の記憶から忘れ去られる前に記録として残しておきたいと思います。
日本では「歯磨体操」「歯磨教練」や「歯ブラシ体操」「歯ブラシ教練」など様々な呼称がありましたが、元々は米国で考案されたもので、英語ではToothbrush Drillといいます。
その起源は1910(明治43)年、米国クリーブランド市のマリオン小学校において歯科医師エバーソル博士が口腔衛生指導を行なった実験学級にあります。
1915(大正4)年、日本聯合歯科医会(日本歯科医師会の前身)は口腔衛生普及活動のために、米国から“Tooth Ache”(歯痛)および“Oral
Health”(口腔衛生)という2本の映画フィルムを輸入しています。
いずれの映画もニューヨーク市の歯科医師会が1912年に制作したものですが、この“Tooth Ache”の内容は先のマリオン小学校における口腔衛生指導の実態を中心にして作られたものでした。
この映画によって日本に Toothbrush Drill が紹介されることになったのです。
では、日本で初めて「歯磨体操」を行なったのは誰で、どこで行われたのでしょうか?
残念ながらわかりませんが、記録の確かなところでは1917(大正6)年に兵庫県豊岡の歯科医師仲沢重造氏が、その地の小学校で口内法で行なったとされています。
民間企業としては、ライオン歯磨本舗(株)小林商店が早くも1922(大正11)年ころから「歯磨体操」の普及活動を始めています。幼稚園、小学校、中学校さらには軍隊にも講師を派遣して実地指導を行なっています。そして、大正末期になるとこの活動を全国的に展開できる体制を整えています。
昭和に入り人々の歯みがきへの関心が高まるにつれて「歯磨体操」を採用する学校が飛躍的に増加しています。この時期、精力的に「歯磨体操」の普及に取り組んだのは、全国各地の歯科医師会、そして民間企業ではライオン歯磨本舗(株)小林商店の他にクラブ歯磨本舗中山太陽堂があげられます。
戦時体制が強化された時期には、「歯磨体操」は『健康報国』や『銃後健康増進』などの国家的なスローガンに沿った活動であり、しかも、一糸乱れず行なわれた集団体操は社会的にも大いに奨励されて普及に拍車がかかっています。
太平洋戦争の後、「歯磨体操」はどうなったのでしょうか。
戦後の混乱期を脱して復興期に入るころから再び盛んになっています。そして昭和30年代に最盛期を迎えています。その理由は、食生活の向上、特に砂糖の摂取量の増大により、学童のムシ歯が蔓延するようになったからです。
1955(昭和30)年、日本歯科医師会は「全国学校歯科医大会」で「学童のむし歯半減運動」を宣言せざるを得ないほどでした。翌年から5年間にわたって全国的に「学童のむし歯半減運動」が展開されています。また1960(昭和35)年からは「全日本よい歯の学校表彰」事業もはじまっています。このような環境のもとで「歯磨体操」は最盛期を迎えたのでした。
(参考文献)榊原悠紀田郎著「学校歯科保健史話」、「歯記列伝」
日本に紹介された当初には各指導者がそれぞれ独自の方法を編み出していたようです。下図は初期の指導書のひとつ「歯磨体操図解」です。この指導書の特徴は、歯列を8カ所に分けて順番にみがくことにあります。
この指導法とは別に、より細かく16カ所に分けて歯をみがく方法もありました。
ライオン((株)小林商店)の「歯磨体操」指導書としては「学校に於ける歯磨教練の実際」(1926(大正15)年5月発行)が最初のものですが、これも16カ所に分ける方法を採用しています。
下図のように、16カ所の区分法は全部の歯をきれいにみがくためにもっとも基本的で合理的であるために、「歯磨体操」の主流となっていきます。そして、後々まで変わらない指導方法となったのです。なお、ブラシを動かすのは縦方向、縦みがきを薦めています。
やがて、イチ、ニイ、サン…という号令だけでなく楽器によるリズムや伴奏がつけられるようになります。
1937(昭和12)年、ライオン((株)小林商店)は明石洋氏作曲による歯磨体操用の音楽「歯磨教練」を制作しレコード化しています。B面には成田孫十郎氏作詞、堀内敬三氏作曲による歯磨教練の歌「ほのぼの明くる」が収録されました。
戦後の1953(昭和28)年には、土橋啓二氏の作曲により新しい歯磨体操用のレコードを制作しています。
号令と指揮の声はラジオ体操で有名になった江木理一氏によるものです。
B面には同じ曲につけられたサトウハチロー氏作詞=歯磨訓練のうた=「くまの子りすの子」が収録されました。
このレコードに「歯磨体操」の解説書を添えて学校向けに頒布したのです。下図は「左奥歯の外側をみがく部分」を解説したページです。各学校では、このレコードを使って常時自主的に「歯磨体操」を実施しました。
このレコードはSP盤からLP盤に変わり、そしてソノシート盤が出現すると大量に配布されました。
それでは、なぜ「歯磨体操」が下火になって行ったのでしょうか?
「歯磨体操」の意義が問われるきっかけとなったのは、1967(昭和42)年8月、厚生省(当時)から保健指導関係者向けに発行された「歯口清掃指導の手びき」です。
この手引書は、歯みがきについて「国民の60~80%が毎日実施しており、国民の歯科保健状態はかなり向上しているはずであるが、実際の国民の歯科疾患の量は、必ずしも満足すべき状態であるとは思われない。」
と指摘し、
(1) 歯口清掃状態を向上することが、歯科疾患の予防及び口腔保健の増進に役立っているかどうか
(2) 現在行なわれている歯口清掃の手段そのもののなかに何か大きな欠陥があるのではないか
と問題を提起したのです。
つまり、歯みがきの習慣が“たしなみ”として行なわれるのではなくムシ歯や歯周病の“予防管理”として行われなければならないと指摘したのです。
「みがいているつもりでも、みがけているかどうか」は別ということなのです。
また、(歯磨体操のような)集団的な指導についても、その意義を認めながらも「画一的な方法をさけて、個別的に」と指摘しています。
これをきっかけに歯みがきの指導法が変わりはじめました。「歯磨体操」では、単なる縦みがき法がロール法(ローリング法)に改められました。
「みがけているかどうか」の確認をするための歯垢検出テストも始まっています。
1982(昭和57)年12月には、スクラッブ法、フォンズ法を取り入れた新曲による新「歯磨体操」が考案されました。(下図参照)
スクラッブ法に対応するためには従来の16カ所をさらに細分化して24カ所に、フォンズ法では19カ所に分けた手順が必要になりました。
ところが、これらは複雑すぎて集団で体操するには難しくなってしまったのです。
たとえば、実際の歯みがき大会では講話によってスクラッブ法やフォンズ法についての説明を加えましたが、「歯磨体操」自体はロール法でしか対応できませんでした。
そもそも体操方式は画一的なもので個別対応ではありません。
本当に“予防管理”として歯をみがくためには「個人の口腔内の状況に合わせた個人指導」が必要となったのです。
こうして「歯磨体操」という指導法は、日本国民の間に歯みがきの習慣を動機づける目的をもって登場し、そして、その目的を果たして歴史の舞台から消え去ることになったのです。
関連情報