こちらの展示室では、当社ライオンにゆかりのあった人物と、その活躍ぶりをご紹介します。
まず最初に、大手拓次(おおて たくじ)です。
大手拓次は北原白秋門下で、萩原朔太郎、室生犀星と共に三羽烏と呼ばれ、北原白秋が「驚異的詩才」と評価した詩人です。
1887(明治20)年、群馬県の磯部温泉にあった旅館「鳳来館」の次男として生まれ、早稲田大学英文学部に学びました。フランスのボードレール等の象徴詩の影響を受け、いち早く原著を取り寄せて翻訳し、その世界を楽しみました。25歳の時に、北原白秋の主宰する詩誌『朱欒(ザンボア)』に参画し、詩を投稿。半年遅れてこれに加わった萩原朔太郎は、拓次の詩のリズムに大いに刺激を受けたと言われています。
卒業後は職に就かず詩作に励んでいましたが、29歳の時「鳳来館」の土地に、ライオン歯磨の原料を生産する磯部工場を建設したという縁があり、1916(大正5)年に小林商店に入社、広告部文案係(現代のコピーライター)として、亡くなるまでの18年間、当社でサラリーマン生活を過ごしました。
創業者・小林富次郎が「宣伝は肥料である」と説き広告を重視したこともあり、当時の広告部で半年もせずに頭角を現した拓次は、文案係として次々に名コピーを生み出していきました。
入社前の作風では生き物が多く登場していましたが、入社後は香りや薔薇の花を多く描いた作風へと変わっていき、後世「薔薇の詩人」と呼ばれるようになりました。当時の本社社屋に隣接していた香料調合研究室に足繫く通い、多くの香りを感じ取り、作品創作のイメージを得ていたようです。文壇とはほとんど無縁でありながら、エネルギッシュに詩作を続け、また、商品の説明書きや新聞広告への出稿、短歌や童話の懸賞募集の選者なども担当していました。
「雪色の薔薇」に見られる、繰り返しの言葉のリズム。児童向け雑誌『赤い鳥』の裏表紙の広告にある、やさしい清々しさ。その独特の表現で、詩においても広告においても、人々を幻想的な世界へと誘っています。
幼いころから病弱で、体調を気遣いながら詩作と仕事に励んでいましたが、1931(昭和6)年以降、肺結核で苦しむようになり2年間の闘病の後、茅ケ崎にあった療養施設「南湖院」で46歳の若さでこの世を去りました。
遺骨になった拓次を、故郷の磯部へ見送る際には、師事していた北原白秋や、萩原朔太郎、室生犀星と会社の同僚ら40人ほどが上野駅に集まり、非凡な才能を惜しみました。
そして2年後に初めての詩集「藍色の蟇」が刊行され、日本の象徴詩を口語自由詩表現として新しく開拓した詩人としての評価を得ることになりました。
大手拓次の詩は、感覚的で暗示的な表現からなじみにくさはあるものの、独特の言葉のリズム感、やわらかい語感によって、幻想的で神秘的な雰囲気を醸し出しており、その世界は、今もなお多くの人々に愛されています。
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