国内での歯磨発売と宣伝活動が成功を収めた後の1906(明治39)年、創業者・小林富次郎がアジアの各地を視察し、翌年には中国の天津、上海、漢口に支店を設置しました。さらに、インド各地に出張所と特約店を開設しています。以来、海外進出は小林商店の営業政策の重要な一環をなしていきました。
そして海外での宣伝活動も盛んに行っています。1927(昭和2)年には朝鮮で、1930(昭和5)年には台湾で楽隊による広告宣伝を行っており、その後は満州・中国でも楽隊広告を実施しました。
各国の言葉で書かれたのぼり旗の写真が残っています。こうしてアジアにも「歯みがき」習慣を広め、販路開拓を着々と進めていきました。
明治時代の雑誌(商工世界太平洋7)に、創業者・小林富次郎本人が音楽隊による宣伝について語った談話が残されています。
(要約)
「歯磨を始めたらどうかと言うことになって、(中略)最初はどうしても売れない。地方ではまだ歯磨の需要が極めて少ない。最初から歯磨を使ったことのない所も多いくらいであるから、まず一般に歯みがきの効用を知らせなくてはならん。次には歯磨と言えば無意識にライオンが口から出る様でなくてはならん。これには広告による外はない(中略)最も効き目のあったのは、全国にわたって大仕掛けの楽隊広告をやったことである。(中略)地方の行き先々で人を雇って、見本を戸毎に配った。これが非常に成功して、需要がとみに増えることになった。(中略)一度使えば自然とその後もその品を使うようになるもので、見本を配ったのはすこぶる効き目があった」
「ハミガキを使う」ということを体験してもらうため試供品を配ること、そして、無意識に「ライオン」を思い出してもらえるよう、親しみやすい歌と音楽で宣伝することを実行したのがこの楽隊広告であり、創業者・小林富次郎の優れたマーケッターとしての一面も見られるエピソードではないか、と思われます。
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