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楽隊広告のはじまり

創業者・小林富次郎は、「広告は植物の肥料と同じである」と例えて、広告活動に熱心に取り組みました。中でも、楽隊を組んで練り歩いた「楽隊広告」は、「歯をみがく」という新しい習慣を全国に広めることになり、歯磨の普及に繋がりました。このとき歌われていた替え歌は、日本で最初のコマーシャルソングと言われています。

口上屋(右端)と音楽隊

「獅子印ライオン歯磨」を発売してから2年後の1898(明治31)年、小林富次郎商店は楽隊広告を使った地方都市での大々的な宣伝活動を計画しました。 楽隊は、当時小林富次郎商店の所在地と同じ神田柳原河岸にあった日の出音楽隊から楽手6名を選び、それに口上屋を1名加えて編成されました。創業者・小林富次郎も楽隊に随行し、特約店の訪問や特約店の新設に奔走しています。

配布されたチラシ広告と見本品

楽手6名がおのおの「ライオン歯磨」と書かれた広告のぼりを掲げ、当時流行していた勇ましい行進曲を奏でながら市街地を練り歩きました。市中の要所に着くと、口上屋が群衆に「この歯磨を使えば、口臭を治し、むし歯を予防する」などと声高らかに歯磨の効能を述べ、チラシ広告とライオンはみがきの見本品を、その場で配布していました。
配布した商品見本の数は定かではありませんが、チラシ広告は10万枚を用意していたということから、かなりの数であったと推察されます。

第一回の楽隊の行程は、10月2日に東京を出発し、沼津から東海道の各都市で楽隊行進を始め名古屋に行き、更に関西を経て広島まで進みました。そこから引き返して岡山から伊勢路を巡回し、11月13日に帰京しています。
出発から数えて実に43日間の大宣伝活動となりました。

「わずか6名の楽士がのぼりを6本立てて町を回るのに、両側は人山を築き、行進に困難した場合が多かった」と、楽隊を監督指揮した当時の社員山崎小八郎が後に語っています。当時、日本で音楽隊による演奏を聞けるのは、東京、横浜、大阪、神戸だけでした。地方では初めて楽隊行進を見聞きする人々が多く、このような騒ぎになったと言えます。
また口上を聞いた人が、もらった見本品を薬と間違えて、大急ぎでむし歯の中に歯磨を入れ、口の周りを歯磨の粉で真っ白にし、歯を食いしばって真面目な顔をしていたなど、微笑ましい場面もあったそうです。

この楽隊広告に成功を収めた小林富次郎商店は、1899(明治32)年に大阪支店を開設、そして楽隊は、東北地方へ巡回することとなりました。「ライオンはみがき」と大書した広告のぼりは、50~60本の大行進になっていきました。

仙台での楽隊行進 1899(明治32)年
東北地方での風景 1909(明治42)年

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