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飛行機

ライト兄弟が初飛行に成功したのは1903(明治36)年12月17日で、飛行時間42秒、距離36mでした。
以来、飛行機は急速に発達し、現在では欠くことのできない交通機関となりました。
これからご覧いただくのは、飛行機がとても珍しかった時代、その話題性を活用して行った当社の宣伝と販売促進活動に関する資料です。

日本で初めて飛行機が飛んだのは1910(明治43)年12月、代々木練兵場で日野熊蔵大尉が操縦するグラーデ式単葉飛行機でした。高度10m、距離60m。同月19日には徳川好敏大尉が飛んでいます。アンリニファルマン式複葉機で、高度70m、距離3km、滞空時間は3分だったそうです。
それからわずか2年数ヶ月後の1913(大正2)年5月、クラブ化粧品本舗中山太陽堂は飛行機から広告ビラを撒きました。これは日本初の飛行機活用の宣伝活動で、広告史上エポックメーキングな出来事として知られています。中山太陽堂は、翌年9月には飛行機の翼の下面に「クラブはみがき」と大書して(飛行機を空飛ぶ看板に仕立て)、ビラ撒きをしていま す。

第一次世界大戦(1914~1918)で飛行機は戦力としての威力が注目されるようになり、列強各国は競ってその性能向上に努めました。
やがて性能が向上し、1927(昭和2)年には、映画「翼よ、あれがパリの灯だ」で有名なリンドバーグが、ニューヨークから大西洋単独無着陸横断飛行に成功しました。
このような背景のもと、日本でも軍を中心に性能向上が図られましたが、民間もまた呼応するように様々な航空界への貢献活動を行っています。
その中のひとつに、1932(昭和7)年10月名古屋新聞社主催の「日満連絡懸賞商業大飛行競争」があります。これは飛行機に大衆の関心を集めて、諸外国に比べて遅れが目立っていた日本の飛行機性能の向上に寄与し、かつ日満両国の友好親善を図るために行われた競技会でした。
名古屋新聞社推奨の日本を代表する生活用品「十大商品」が競争機で満州へ輸送されて、新京と奉天で「空輸商品展示会」が開催され、友好親善の一役を担いました。この「十大商品」には、森永製菓の菓子、クラブ化粧品、わかもと、ロート目薬などと共にライオン歯磨が入っていました。
大飛行競争としては、7機参加。その内、新京に着いたのは5機、東京まで帰還できたのはわずかに3機でした。これが当時の飛行機の性能だったのです。
(飛行競争の資料提供:日本歯科医史学会々員 北九州市 上潟口武氏)

大東京遊覧飛行

「大東京遊覧飛行」 1933(昭和8)年

1933(昭和8)年5月、ライオン歯磨本舗小林商店は5万人の愛用者優待企画を実施しましたが、その賞のひとつに「大東京遊覧飛行」100名招待がありました。まだ珍しかった飛行機に乗って、空から東京見物ができるという斬新さが大きな話題を呼びました。
飛行コースは、羽田を飛び立ち、品川~月島~永代橋~浅草~日暮里~池袋~淀橋~目黒~大井の上空を飛び羽田に戻るというものでした。
社内報「ライオンだより」(№75)は、この「大東京遊覧飛行」の模様を次のように伝えています。

「わたしやこどもの頃に、お寺の坊さんから『今に人間にも羽根が生えて空を飛んで歩く様になる』と云ふお説教を聞いた事がありますわい。そんなことがあるものかと思って居りましたが、これで今日はいよいよ私にも羽根が生える事になりました。まあ、冥土の土産に一度飛行機に乗せてもらいます。わたしや72才になりますわい。」と元気なお婆さんが関西なまりのある言葉で、休憩所の一同を笑はせる。愛用者招待大東京遊覧飛行の第1回目の飛行機は、サッと見事に着陸した。
6人のお客さんがニコニコ顔で降りてくる。「池袋の上の辺でギグッと来ましたよ。20米位も落っこちた様に思われました。」と一人の青年がまくし立てると、次々と順番を待ってゐる一同は一寸顔を見合はす。おっかながってゐるらしい。
お昼の休みに飛行士の話を聞いた。「飛行機に乗りつけると、地上の自動車等は危くてたまらない。曲り角が多くって・・・」とおっしゃる。「飛行機はその点、実にのんきな旅が出来る。仙台まで飛ぶにも、羽田を出るとすぐ大きな煙突が見えるでせう。」
「本郷帝大のあの大きな煙突ですか?いやいやあの何とかって鉱山の・・・、そう日立銅山さ。それからぢきに大洗の浜へ出て、海岸を一寸行けばもう仙台ですからネ・・・」

エア・タキシー/空のハイキング

招待旅行「あなたはどこへ?」のポスター
1937(昭和12)年

飛行機の性能が良くなるにつれて、飛行機の遊覧旅行はますます人気になりました。
ライオン歯磨(株)は1937(昭和12)年 5月、「あなたはどこへ?」と名づけた愛用者招待旅行を行いました。
飛行機旅行、汽車旅行、そして観劇という3つの招待旅行が設定されており、しかも、それぞれの旅行にはいくつかのコースがありました。
応募者は自分の好みにより旅行コースを選択できるようになっていましたから、企画の名称が「あなたはどこへ?」となったのです。飛行機旅行があるということと、コースが選べるということで話題になりました。

 

飛行機の性能が良くなるにつれて、飛行機の遊覧旅行はますます人気になりました。
ライオン歯磨(株)は1937(昭和12)年 5月、「あなたはどこへ?」と名づけた愛用者招待旅行を行いました。
飛行機旅行、汽車旅行、そして観劇という3つの招待旅行が設定されており、しかも、それぞれの旅行にはいくつかのコースがありました。
応募者は自分の好みにより旅行コースを選択できるようになっていましたから、企画の名称が「あなたはどこへ?」となったのです。飛行機旅行があるということと、コースが選べるということで話題になりました。

 

招待旅行「あなたはどこへ?」のポスター
1937(昭和12)年

 

「空のハイキング」 1937(昭和12)年

飛行機旅行には、東京・横浜地区の愛用者を対象にした「エア・タキシー」遊覧コースと、京阪神地区の愛用者を対象とした「空のハイキング」コースがありました。「エア・タキシー」遊覧コースで使用されたのは6人乗の旅客機フォッカー・スーパー・ユニバーサル機3機。羽田から村山・山口貯水池までの上空を往復する遊覧飛行でした。「空のハイキング」コースは、堺大浜を飛び立ち、築港沖から大阪湾の上空を遊覧して堺大浜に戻る25分間の旅でした。飛行機は愛知4AB型飛行艇が使われました。

「神風号」大記録記念懸賞大売出し

「神風号」記録大飛行記念の
懸賞大売出しポスター 1937(昭和12)年

1937(昭和12)年には、ライオン歯磨(株)は飛行機旅行への招待だけではなく、「亜欧記録大飛行懸賞大売出し」も行っています。
同年4月6日、朝日新聞社の「神風号」は、亜欧(東京~ロンドン)の都市間連絡飛行の記録樹立を目指して立川飛行場を離陸しました。台北、ハノイ、カルカッタ、カラチ、バクダード、アテネ、ローマ、パリなどを経て10日午前0時30分、ロンドンに着陸し、見事に大記録を達成したのです。この情報が伝わると、朝日新聞社の周辺は深夜にもかかわらず群集があふれ、歓声が湧きあがったそうです。
このような雰囲気の中で、ライオン歯磨(株)は、「神風号」による記録的な大飛行を祝福し、併せて民間航空の振興賛助金を提供することを目的として「亜欧記録大飛行懸賞大売出し」を行ったのです。とてもタイムリーな企画でした。
なお、懸賞問題は「神風号」が飛んだ東京一ロンドン間の航空距離を答えるというものでした。

アメリカへ空の旅

「アメリカへ空の旅」新聞広告
1954(昭和29)年

ライオンが実施してきた販促企画の中で、最大規模のひとつといってよいのが、1954(昭和29)年2月に発表した「アメリカへ空の旅」という企画です。
最高のライオン賞はアメリカ旅行(または賞金70万円) 3本、次の1等は16日間の日本国内の空の旅、2等は10日間の国内空の旅、3等以下も電気蓄音機や電気洗濯機、ミキサーなどの豪華な賞品が当たり、以下7等まで8万名に賞品が当たるというビッグな内容でした。

「アメリカへ空の旅」抽選券
1954(昭和29)年

中でも「アメリカへ空の旅」は、ハワイ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴ、ワシントン、ニューヨークなどを21日間かけて観光するもの で、「御旅行中の小遣はいりません。通訳付で御案内します」という至れり尽せりの内容でした。企画発表と共に大変な話題となりました。

大阪府立体育館での「アメリカへ空の旅」
抽選会風景 1954(昭和29)年
「アメリカへ空の旅」のチラシ
1954(昭和29)年

ところで、この年、ライオン歯磨(株)はトニー谷と新聞、雑誌、ラジオ関係の(まだテレビがなかった)CM契約をしました。
トニー谷は、独特のフォックス眼鏡に口髭スタイル、キザが売り物のボードビリアン。ソロバンをリズム楽器に使い「レディース・エンド・ジェントルメン、アンド、おとっつあん、おっかさん」と怪しげな英語と日本語をチャンポンに七五調で喋りまくり(これをトニーグリッシュと言いました)、辛らつなギャグで相手を煙に巻く芸風で人気者でした。
「アメリカへ空の旅」企画に起用されたトニー谷は、自らもこの企画に大乗気でした。「ライオンの一社員として協力したいから、(演出について)どんどん注文を出してくれ」と言い、ライオン歯磨(株)に次のような宣伝コピーを寄せています。

「アメリカへ空の旅」のチラシ
1954(昭和29)年

レディース.アンド・ジェントルマン、アンド、
おとっつあん、おっかさん!
日頃の 御贔屓ごひいきサンキュウざんす
それに応えてこの度は
画期的なる計画ざんす ねぇ皆さん
ウェルカム ツゥ アメリカ旅行
チュウブ1個でハッピイ カムカム
素ッ敵ざんす いいざんす
御協力下さる事こそ よけれけれ
ハワイでフラフラフラダンス
サンフランシスコは金門橋
ロスアンゼルスは撮影場
ワシントンではアイクさん
ニューヨークでは摩天楼
グランドキャニヨン見物して
お金がナイヤガラ
今しゃべった所はアメリカの
あっちらこちらのみんなも知ってる
有名な 誰でも見物するところ
サアサ みんなで行きたけりや

ライオンチュウブを買いなさい
もしも 抽セン あたったら
このコースで御案内ざんす

3月15日付全国紙朝刊に掲載した新聞広告にも、
「チュウブを買って抽選たりや
アメリカ見物OKざんす
ジス・イズ まったくベリグウざんす」
とトニー谷調のコピーを使用しました。

沖縄から本土へ

「東京へアベック空の旅」の抽選券
1957(昭和32)年

「アメリカへ空の旅」に比べればずっと小さく地味ですが、歴史を感じさせる旅行がありました。
1957(昭和32)年、沖縄県の愛用者を対象として実施した「東京へアベック空の旅ご招待」です。
太平洋戦争が終わってもう10年以上経っていましたが、沖縄は米軍の統治下にありました。(日米両国が沖縄返還協定に調印したのは、1971(昭和46)年6月17日) 本土からも、沖縄からも、それぞれは外国の扱いでした。したがって、この企画を推進したライオン歯磨(株)の担当部所は「輸出課」でした。
1ドル360円の固定レートで、海外持ち出しドルの制限があった時代です。「東京へアベック空の旅ご招待」は、本土日本への海外旅行だったのです。
企画した側にも、当選して東京旅行をした側にも今日とは異なった海外旅行の重みを感じることがあったと思われます。
いつの世も、宣伝や販売促進活動に求められるのは、時代を先取りしていること、話題性があること、そして、タイムリーに行うこと、などでしょうか。
しかし、これらがそろっていても、人々の共感を得られると限りません。成功した企画には共通した何かがあるように感じられます。

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