さて、この展示室における最後の資料は、幻灯と紙芝居です。
映画と共に当社の口腔衛生普及活動に活躍した、これらの資料の歴史を振り返ってみたいと思います。
幻灯ってスライドのこと?
実際に幻灯を見たことのない人も多くなっていますから、分からなくなっていますね。厳密に言えば、幻灯とスライドとは異なっていますが、ここでは同じと考えてください。
当社の口腔衛生普及活動の原点と言える「ライオン通俗講演会」は、1913(大正2)年2月23日に始まります。はじめは文字通りの講演会でした。
しかし、講演会をより楽しく聴衆の理解を深めるために、写真のような掛け図を使い、、そして幻灯を活用するようになっていきました。
同年4月5日付けの「講演会」の案内状には「・・・衛生講話を催して昼間は詳細なる図解説明を為し、夜間は鮮明なる幻灯の設備により歯牙衛生の思想と方法と・・・」とあります。
また、1915(大正4)年には幻灯を使用することを知らせるために「歯牙衛生幻灯会」と名付けた会が開催されています。左下は島根県松江市の山陰慈育家庭学院と松江育児院が発行したチラシ内容です。
こうするうちに無声映画が出現します。
1922(大正11)年にライオン歯磨本舗(株)小林商店が口腔衛生映画「知恵と歯は」を制作したことは前のコーナーでご覧いただいた通りです。やがて映画はトーキーになり、(株)小林商店の口腔衛生普及活動も映画が中心になっていきます。しかし、幻灯は制作費や機材が安く取り扱いが易しいためにその後も長く活用されています。
1937(昭和12)年の時点で、(株)小林商店が行っていた資料の貸出と映写サービスに以下のような幻灯フィルムがあったことが確認できます。
「スカンヂナビヤ児童の歯に関する自由画」「健康11則」「歯刷子の良し悪し」
「壮丁は斯くして厳選す」「吾々の祖先」
1940(昭和15)年7月には、房総方面の海岸6ヶ所で「避暑地健康躍進映画会」を開催していますが、映画の上映前に「ムシ歯と歯槽膿漏」というスライド(この時は幻灯ではなくスライドという言葉を使っています)を映写しています。
太平洋戦争で中断されていた「むし歯予防デー」は、1948(昭和23)年6月4日に復活しました。翌年には6月1日から1週間を「口腔衛生週間」とする大々的な国家行事(主催:当時の厚生省、文部省、労働省、日本歯科医師会後援:運輸省、農林省)となりました。
この年、ライオン歯磨(株)は、1947(昭和22)年に募集した「“日米文化交換”歯に関する作文」の優秀作品を幻灯化しています。さらに都保健課の風間先生の原作を幻灯化して「歯を磨きましょう」「僕の歯」「負けた太郎さん」「トム公の失敗」を制作しました。
そして、これらの幻灯フィルムを使用して、口腔衛生週間中に東京地区で「衛生講演と幻灯の会」を開催しています。
実はこの会は大変なことになりました。というのは「予想外の申し込みに嬉しい悲鳴を上げ、単独の申し込みには応じ切れず、団体申し込みの需に応じ学校を巡回する」ような騒ぎになってしまったのです。幻灯がそんなに人気があった時代があったのです。
1950(昭和25)年頃には、ライオン歯磨(株)は幼稚園向けの活動として「16ミリトーキー映画と幻灯の会」を盛んに行っています。この時に使用した幻灯フィルムは、園児向けの「僕の歯」と母親向けの「ムシ歯の話」でした。
1953(昭和28年)には、貸出用の教育用幻灯フィルムとして次のものを保有していました。
「小熊のラフちゃん」(幼稚園向け、天然色26コマ)「古はぶらしの旅」(小学低学年向け、天然色14コマ)「歯磨のできるまで」(小学高学年中学生向け、着色28コマ)
コマとは、ロール状になったフィルムのコマ数のこと。着色とは白黒フィルムで撮影したものに着色したものです。
「小熊のラフちゃん」は1951(昭和26)年に制作されたもので、音楽とナレーション入りの録音テープもあり、イラストレーター佐原道夫氏の原画もあります。
「歯磨のできるまで」は、1952(昭和27)年6月の制作で社会科資料として多くの学校に贈呈されています。この幻灯にはハミガキの主要原料である炭酸カルシウムの原石を山から採掘する画面や原石を石炭で焼き炭酸カルシウムを取り出し不純物を取り除いて行く工程の画面もあります。
現在では見られなくなった製造工程ですから、産業史として貴重なフィルムになるかもしれません。
1956(昭和31)年には、ライオン歯磨(株)が発行していた口腔衛生の専門情報誌「お一らるはいじん」13号に、「子供と作る幻灯フィルム」(シナリオ作家巖谷平三氏)という記事が掲載されています。この時代、「小学○年生」や「少年クラブ」など学童生徒向け雑誌にも、幻灯機の工作が付録につく時代でした。なお、15号には「影絵劇とその上演の手引」が掲載されています。
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