では、慈善券事業はどのような背景から生まれたのでしょうか。
初代小林富次郎は、神戸市の鳴行社で石鹸事業に携わっていた1888(明治21)年、多聞教会で洗礼を受けクリスチャンとなりました。そして、この教会を通じて知った同じクリスチャンの石井十次氏が始めたばかりの岡山孤児院に月々1円を寄付しています。その当時、神戸では初めての高額寄付であったと伝えられています。
しかし、初代小林富次郎は個人で出来ることの限界を感じ、もっと多くの人たちの善意の心を集めて継続的に社会貢献できる方法はないかと常に考えていました。
1900(明治33)年10月22日付「東京朝日新聞」で「ライオン歯磨慈善券付袋入」の発売を発表します。この中で「慈善券の趣旨」を以下のように述べていますが、日頃の初代小林富次郎の思いをよく伝えています。
「人は唯己の利慾の為めにのみ生活するに非ず、事情の許す限りは公益を謀り、他人の不幸を憐れみ、薄命者を救済するが為めに博愛慈善の心掛を要すと雖(いえど)も、今や社会の事業ますます煩雑を極むるに従ひ、我れも人も毎日眼前の業務にのみ追はれて、思はず知らず其ままに経過し、承知しながら善き事に散ずる金は少くして、無益のものに費用の嵩むこと多し、甚だ不本意の至りにして、世間も漸く一般に薄情かと見れば、案外にも之に反して、慈愛済民を真実に目的と為し、或は孤児を集めて之を生育し、病院を起して施療を行ひ、老ひたるものを養い、不具廃疾の人を助け、悪少年を感化し、出獄人を教誨する等、全く心身を社会の為めに捧げて、一心不乱に努む人あり・・・」。
続いて、「多くの人々に慈善の思想を普及させたならば、その結果として慈善事業に恒久的な基礎を与えることができる。そして、孤児院その他の慈善団体は財政上の基礎がいずれも不安定であるので、慈善券の発行によって、その一端を補うことができる」と述べています。
ところで、慈善券のアイデアは小林富次郎商店のオリジナルではありません。「時事新報」に掲載された米国の石鹸会社「カーク商会」の事例をヒントにしたものでした。ところが本家のカーク商会が短期間で止めたのに対して、小林富次郎商店は1901(明治34)年1月~1920(大正9)年12月まで満20年間にわたる大事業としたのです。この間の寄付金の総額は336,554円50銭7厘でした。
関連情報