ここでは、当社がプロ野球と関係した資料を閲覧してみましょう。
日本で本格的なプロ野球のチーム「大日本東京野球倶楽部-東京巨人軍-」(現・読売ジャイアンツ)が誕生したのは1934(昭和9)年です。1936(昭和11)年には東京巨人、大阪タイガース(現・阪神タイガース)、阪急(現・オリックス・バファローズ)、名古屋金鯱、名古屋(現・中日ドラゴンズ)、大東京、東京セネタースの7球団により日本職業野球連盟が設立され、1937(昭和12)年にはイーグルスが加盟し8球団になりました。しかし、当時、野球といえば東京六大学野球をはじめとする学生野球が圧倒的な人気を誇っていましたから、職業野球団の経営は苦しかったようです。
大東京軍(小西得郎監督)が「ライオン軍」と名称を変えることになるのですが、そのあたりの事情は「鈴木龍二回顧録」(鈴木龍二著。1980(昭和55)年ベースボール・マガジン社発行)に詳しく書かれています。
著者の鈴木龍二氏は大東京軍の設立時に代表となり、1952(昭和27)年にセントラルリーグ会長、そして1982(昭和57)年には野球殿堂入りされた方です。
この回顧録によれば、国民新聞社を母体に官僚をバックとして設立した大東京軍の経営は苦しく、支援先を探していたこと、そして、大東京軍の名称をもっと強そうなものに変えようという話があったことが書かれています。そして、名称については大阪にタイガースがあるのだから、ライオンはどうかという案もでました。この「ライオン」という名称が出た時に、ライオン歯磨本舗(株)小林商店に支援を頼んでみようということになったのだそうです。
一方、(株)小林商店はこの頃、ライオン歯磨愛用者を映画や観劇に招待する催しを盛んに行っており、さらに大衆に魅力のある催し物を求めていましたから、とうぜん野球にも関心がありました。
大東京軍からの要請に対して、(株)小林商店の条件は「球団名をライオンにしてくれるなら」ということでしたから、話はとんとん拍子に決まりました。契約は1937(昭和12)年8月1日。
とても急に決まったために、8月15日発行の社内報「ライオンだより」には左のような小さな記事がスポット的に掲載されただけでした。
では「タイアップ」とか「特別親密なる関係」とはどのような内容だったのでしょうか。
「鈴木龍二回顧録」によって明らかになりました。
(株)小林商店の支援金は毎月800円。
職業野球選手の月給が100円~120円くらいで、大東京軍では最高給の選手が200円だったそうです。
ですから毎月の800円の支援は「大いに助かった」と書いてあります。
こうして「ライオン軍」は野球の公式戦はもちろんのこと、ライオン歯磨と歯刷子の宣伝や販売促進に大活躍することになったのです。
「ライオン軍」と名称が変わった初めての試合は8月14日に行われた松本での試合で、名古屋軍と戦い、14-4で快勝しました。では地元東京での初戦はどうだったのでしょうか。この試合は「改称披露野球戦」と表現されています。
時は8月21日。場所は東京・洲崎球場(現在の東京・木場付近)。
試合はダブルヘッダーが組まれています。
第1戦は午後2時開始、ライオン軍対セネタース軍
第2戦は午後4時開始、ライオン軍対巨人軍
当日の模様を社内報「ライオンだより」は次のように伝えています。
「午後1時と云ふにスタンドは更新ライオン軍の意気を見んものと大半を埋めつくし、ライオン歯磨招待の御販売店各位も続々とつめかけられ」「スコアボードの側には勇壮なるライオンを図案化せるライオン軍の新旗がひるがえり、スタンドの上にはライオン歯磨の旗が幾旗となくひるがえっている」
第1試合は2-1でライオン軍が勝ちました。勝試合であったために「ライオンだより」は試合の流れを詳細に記述しています。そして、「この試合はライオン軍の試合運もさることながら、やはり更新の意気と打撃力の然らしめた勝利であった」
試合時間1時間20分。
第2試合はライオン軍の負け試合でした。社内報の記者は「頼みとする菊矢投手が崩れて勝利の望みを失い」と書いていますが、負け試合で元気を失ったのか、得点も書いていません。
調べてみると当日の記録は、(財)野球体育博物館(東京ドーム内)にしっかり残されていました。
読売新聞のスクラップによれば、「ラ軍、セ軍を抑へ巨人軍に負る-ライオン改称披露野球戦-」とあります。第2試合は7対1で巨人軍の勝ち。巨人軍は青柴、前川、スタルヒンの3投手を継投させています。
試合時間1時間20分。
また、同博物館でライオン軍に関する面白い記録を見つけました。プロ野球史上初のトリプルプレーを達成したのはライオン軍だったのです。
1938(昭和13)年10月23日、名古屋軍対ライオン軍戦のことでした。名古屋軍の攻撃、走者1、2塁。桝選手の打球は2塁ライナー。球は2塁から1塁へと渡り、それぞれ飛び出していた走者がアウト。これでトリプルプレー達成でした。
ライオン軍は公式戦ばかりでなく、(株)小林商店が関係する多くの催し物にも参加しています。
例えば、1938(昭和13)年の第7回学童歯磨訓練大会では第2部でエキビジョンマッチを行っています。この時の対戦相手はセネタース軍でした。
ライオン軍はあまり強いチームではありませんでした。投手陣が弱体で打力でなんとかがんばるチームだったようです。(株)小林商店はこんなライオン軍を励ますために応援歌とエールを作ることになりました。
1938(昭和13)年、新聞広告で大々的に懸賞募集をしています。審査委員長は山田耕筰氏。多くの作品の中から応援歌は1等1作品、2等5作品、エールは6作品が選ばれ賞金が授与されました。
応援歌は、翌年早々、1等入選作に山田耕筰氏が曲をつけて完成しました。
さて、職業野球団の春季野球リーグが開幕となり、いよいよ応援歌の出番です。
1939(昭和14)年3月18日(土)19日(日)の両日、(株)小林商店が寄贈した新しいスコアボードが設置された後楽園球場で、ライオン軍応援歌の発表会が開催されました。
また、この2日間は、(株)小林商店がライオン歯磨の空箱(サック)を持参した野球ファンに2階席を全部無料解放しています。
さて、1940(昭和15)年は、「日本書記」に書かれている神武天皇即位から数えて2600年目に当たるとされ、様々な紀元2600年記念の祝賀行事が行われました。日中戦争が泥沼化し戦時体制が強化される中で、日本の伝統を見直してますます国威を発揚すべしという運動が広がっていきます。洋風の思想や文化を排し日本の文物を大切にと云う風潮です。こうした考えからするとスポーツの面でも相撲、剣道、柔道は奨励されますが、外来のスポーツで特にアメリカの国技である野球に対しては次第に風当たりが強くなっていきました。
野球連盟は時局に対応するために、ユニフォームの文字、球団旗などを日本字とし、試合中における選手、審判員、場内放送者も日本語を使用することを取り決めます。プレーボールは「試合始め」、タイムは「停止」、ストライクは「よし」、ボールは「ダメ」・・・。
巨人軍は、前年までユニフォームの文字は「GIANTS」でしたが、この年は「巨」の一字に変わっています。同軍のエース、ビクトル・スタルヒン投手は、9月16日の対金鯱戦から須田博と改名して登録されました。
そして、球団の名称も日本語化することになりました。タイガースは阪神、セネタースは翼、イーグルスは黒鷲と。そして、ライオン軍は翌1941(昭和16)年朝日軍と改められることになりました。ライオン名を使えなくなるのですから、(株)小林商店は当然スポンサーから降りました。
こうして「ライオン軍」という名称はなくなり、(株)小林商店とプロ野球の関係もなくなったのです。やがて、日本は太平洋戦争に突入します。そして、1944(昭和19)年9月9日~11日、後楽園球場と甲子園球場で行われた「日本野球総進軍優勝大会」が戦前最後のプロ野球の試合となりました。
ちなみに、ライオン軍から改称した朝日軍は、戦後になって、太陽ロビンス、松竹ロビンス、大洋松竹ロビンス、大洋ホエールズ、横浜ベイスターズと名を変え、今日の横浜DeNAベイスターズにつながっています。
関連情報